戸隠神社

戸隠神社といっても、奥社、九頭龍社、中社、火之御子社、宝光社、の五社あります。すべて歩くと丸一日はかかります。

山岳信仰が強かった山には、「古道」と呼ばれる、歴史と文化を感じさせる道が残っていることが多く、ここ戸隠にも、戸隠古道という素晴らしい道があります。ポイントとポイントをこまめにつないでいるので、1時間ぐらいの散歩コースにもなります。一応地図には載ってるけど、多分歩く人は殆どいない。これこそが観光資源なのに。11月だったこともあって、1日歩きましたが、誰とも会いませんでした。でも、道は杉の落ち葉でフカフカで、すごく気持ちよかった。
アマテラスオオミカミが隠れてしまった天岩戸が、ここに投げられたから、「戸隠」という名前になった、ということになっていて、地元の人に聞くと、古事記にそう書いてある、と言うんですが、古事記にも日本書紀にも、書いてあるのは「戸隠れ」したことだけで、信州のこの地に岩戸を投げた、なんていう記述はありません。調べたのですが、誰が、なぜ、この地にしたのかは謎。信州が交通の要衝だったので、重要な神様をあえて指定したのかもしれません。

戸隠神社の中社付近に行くと、参道にたくさんの宿坊があることに驚きました。宿坊は御師とセットで、中世の神社の隆盛を支えたシステムです。
御師(オシ)、というのは、下級の神職、ということになっているのですが、今でいうところの、観光代理店、バスガイド、グッズ出張販売、宣教師、を兼ねたようなイメージでしょうか。日本各地をまわって、講(共同購入グループみたいなもの)を作り、その神社へ団体旅行をするアレンジをする仕事です。当時は旅行は人生の一大イベントなので、講でお金を積み立てて、交替でみんなで旅行したわけです。田舎に行くと、何々山に行ったきたぞ!という石碑をちょくちょく見かけますが、講の名残りです。
神社側からしても、地元の支援者(檀家/氏子)は物理的な限界があるし、組織を拡大しようとしても役職がない、そういった成長限界を超える仕組みが御師制度だったと言えます。ホテル業に事業を多角化し、かつ役職を確保できる事業が、神社の参道に盛んに作られた宿坊という宿泊設備なわけですが、その宿泊設備にお客を連れてくる仕事が御師だったわけです。戸隠神社にはいまでも20以上の宿坊(今は旅館)があります。ガイドブックの宿泊施設リストに掲載されてないということは、いまでもこの御師-宿坊システムは残存しているはず。

このエリアには、「鬼女紅葉」の話がちらちら出てきます。「鬼女紅葉」というのは能や歌舞伎の題材になる話で、ごく簡単に言うと、900年頃、紅葉という名前の美女が、源経基の侍女となり、子供を産むが、正妻に呪いをかけた疑いで、戸隠に追放される。戸隠神社の里の辺りの水無瀬(今の鬼無里)にたどりつくが、京に戻りたくて、一族を率いて戸隠山に籠り、付近の村を「戸隠の鬼女」として荒らしまわるようになるが、討伐を命じられた平維茂に滅ぼされる、という話。
戸隠神社の辺りから歩いていくと山越えして1日かかると言われて行かなかったんですが、鬼無里(元は木那佐)村、行けばよかった。紅葉が立てこもった岩屋というのもあって、きっと何かあると思うんです。最近、「邪魔になったので中央から滅ぼされて歴史上「鬼」にされたけど、実は地元で愛されていたリーダー」という分野がある、という事に気付きました。キリスト教が拡がるときに、土着の神様とか王族が悪魔にされたのと同じですね。

写真つきは→ http://www.fromkiyama.com/tog.htm