サンディエゴ現代美術館 Museum of Contemporary Art San Diego

サンディエゴのダウンタウンに建物が二つ。La Jollaにひとつ。シンプルで雰囲気が好き。チケットが1週間有効で、3つ全ての建物で使えるのもいいです。
この美術館は、数か月で展示内容がほとんど入れ替わります。私が行ったときはTara Donovan展でした。すごーい良かった。細胞がsurfingする感じ。

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久留里

名前の響きがとても素敵な久留里(くるり)。
千葉県は木更津辺りまではもう都会ですが、JR久留里線に乗っていくと、みるみる景色が変わってくるのがわかります。久留里線は単線で本数も少なく、何しろ東京駅から高速バスに乗った方が早い。
久留里という地名の由来には諸説ありますが、そのうちの一つが「阿久留里王(あくるおう)」という豪族の名前からとった、という説。どうやら阿久留王は実在した人物のようで、ヤマトタケルに滅ぼされて「鬼」にされたようです。君津市鹿野山が本拠地で、付近に「鬼塚」「鬼泪山」「血染川」といった地名が残っています。阿久留王の胴体を埋めた「阿久留王塚」、頭部を埋めた「お八つが塚」もあります。長野県安曇野の「魏石鬼八面大王」もそうですが、当時は頭部と胴体を切断して鎮魂したんですね。
こういった「鬼」がいた土地は、古くからの信仰が残っていることが多く、久留里神社は、非常に興味深い。日本の信仰の歴史とその魅力は、神仏混淆神仏習合のダイナミズムにあると思います。明治政府による神仏分離令(+廃仏毀釈)によって、その跡はだいぶ消えてしまっているのですが、ときどき、その跡がまだ残っている場所があります。ここがそこ。
長野駅からの野沢温泉のような、遠すぎず近すぎずの絶妙の距離、しかも東京から普通乗車券で来れる。名水の評判と数多く残る井戸。ちょっとしたハイキングに最適な久留里城。阿久留里王という古代ロマン伝説。何よりもその名前の響き。などなど、観光地としての条件を備えた久留里ですが、唯一、それらを台無しにしてしまっているのが、城下町の家並みの通りに、国道を通してしまったこと。古い街並みは「旧道」になって、主要道路から少し外れる場合が多いのですが、ここは、びゅんびゅん車が通るので、雰囲気が台無し。一本外すだけで観光地としてのバリューが全く違っていたはずなのに。残念。

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善光寺

日本最古の歴史を持つ長野県善光寺長野駅そのものが善光寺門前町で、すさまじい集客力です。
歴史上の有名人が多く関わる1400年の歴史と、独自性の高い出自と信仰システムが善光寺の隆盛を支えています。善光寺がここまで信者を集めたのは以下の理由からでしょうか。

・ 信者のプロファイルを限定しない。無宗派。女性OK。古い時代に女人禁制でなかったのは珍しく、女人救済の寺として有名になったので、江戸時代には参詣者の半数が女性だったそうです。
・ 一般人が建設したというユニークな由来と古代ロマン。仏教派の蘇我稲目と対立していた廃仏派の物部尾輿は、蘇我稲目の向原寺を焼き払い、祀られていた大陸伝来の阿弥陀三尊仏を、難波の堀江に捨ててしまいます。これを拾ったのが、難波に来ていた信濃の本田善光という一般人。本田善光は、拾った仏を自宅に祀ります。つまり、善光寺とは、よしみつさんのお寺なのです。だから無宗派なんですね。よしみつさんは、奥さんと息子さんとともに本堂に祀られています。
・ 全国に拡がった善光寺。霊験あらたかな御本尊は、戦国時代、戦国武将に奪われて自分の領土に持って行かれます。長野→甲府武田信玄)→岐阜(織田信忠(信長の長男))→尾張清州(織田信雄(信忠の弟))→浜松鴨江(徳川家康)→甲府徳川家康)→京都(豊臣秀吉)→長野に戻る。各武将が自分の領土に「善光寺」を立てたので、かえって、全国に名前が拡がる結果となりました。全国に、「善光寺」を正式名称とするお寺は119ヶ所、「善光寺仏」は443体あるそうです。
・ 内陣の地蔵菩薩像と弥勒菩薩をはじめ、芸術作品として一級品の数々。中でも「びんずる尊者」は素晴らしい。来訪者が参加してできあがる現在進行形の仏像は、観客参加型の現代アート作品を連想させます。
・ 期待と想像を刺激する「秘仏」システム。ちなみに、7年に一度の御開帳は、秘仏と同じ姿の前立本尊で、秘仏はあくまで絶対秘仏です。
・ 暗闇を歩いて秘仏の本尊と結縁する「お戒壇めぐり」システム。
天皇に庇護されたお寺。皇極天皇が、本田善光に高い地位を与え、伽藍造営を命じます。だから、明治の廃仏毀釈も乗り切ったのではないでしょうか。

私が疑問なのは、これだけの経済力をもった寺が、なぜ特定宗派にとりこまれなかったか、ということ。今は、天台宗と浄土宗が共同管理、ということになっていますが、実態はどうなっているのでしょう?
また、なぜ秘仏になったのか。654年頃に仏の宣託によって秘仏になったと伝えられていますが、詳しいことは不明です。

写真付きの善光寺紹介は→http://www.fromkiyama.com/zkj.htm

野沢温泉

長年、人気を維持している野沢温泉。その理由はこれぐらいでしょうか。

・村人が使う複数の共同浴場を可能にした豊富な湯量。→ 内湯なしの外湯のみ、という旅館経営が可能になる。→ 外湯にすることで、観光客が町を歩き、町そのものが活性化される。
・豊富な湯量 → 「麻釜」という迫力のある景観。村人が卵や野菜を茹でるという風情。
・スキー場が徒歩圏内
・大きなホテルが(たぶん色々な事情で)建たなかった。
・各地区の住民が管理する共同浴場を無料にした為、旅行者にとっては「使わせて頂く」ことからくる独特の雰囲気。十三ヶ所ある共同浴場すべて入りましたが、この雰囲気は共通。これが100円でも支払うのであれば、全く違っていたと思います。
長野駅からの電車とバスを乗りついで1時間半という、遠すぎず近すぎずの絶妙な距離感

写真付きは→http://www.fromkiyama.com/nzw.htm

戸隠神社

戸隠神社といっても、奥社、九頭龍社、中社、火之御子社、宝光社、の五社あります。すべて歩くと丸一日はかかります。

山岳信仰が強かった山には、「古道」と呼ばれる、歴史と文化を感じさせる道が残っていることが多く、ここ戸隠にも、戸隠古道という素晴らしい道があります。ポイントとポイントをこまめにつないでいるので、1時間ぐらいの散歩コースにもなります。一応地図には載ってるけど、多分歩く人は殆どいない。これこそが観光資源なのに。11月だったこともあって、1日歩きましたが、誰とも会いませんでした。でも、道は杉の落ち葉でフカフカで、すごく気持ちよかった。
アマテラスオオミカミが隠れてしまった天岩戸が、ここに投げられたから、「戸隠」という名前になった、ということになっていて、地元の人に聞くと、古事記にそう書いてある、と言うんですが、古事記にも日本書紀にも、書いてあるのは「戸隠れ」したことだけで、信州のこの地に岩戸を投げた、なんていう記述はありません。調べたのですが、誰が、なぜ、この地にしたのかは謎。信州が交通の要衝だったので、重要な神様をあえて指定したのかもしれません。

戸隠神社の中社付近に行くと、参道にたくさんの宿坊があることに驚きました。宿坊は御師とセットで、中世の神社の隆盛を支えたシステムです。
御師(オシ)、というのは、下級の神職、ということになっているのですが、今でいうところの、観光代理店、バスガイド、グッズ出張販売、宣教師、を兼ねたようなイメージでしょうか。日本各地をまわって、講(共同購入グループみたいなもの)を作り、その神社へ団体旅行をするアレンジをする仕事です。当時は旅行は人生の一大イベントなので、講でお金を積み立てて、交替でみんなで旅行したわけです。田舎に行くと、何々山に行ったきたぞ!という石碑をちょくちょく見かけますが、講の名残りです。
神社側からしても、地元の支援者(檀家/氏子)は物理的な限界があるし、組織を拡大しようとしても役職がない、そういった成長限界を超える仕組みが御師制度だったと言えます。ホテル業に事業を多角化し、かつ役職を確保できる事業が、神社の参道に盛んに作られた宿坊という宿泊設備なわけですが、その宿泊設備にお客を連れてくる仕事が御師だったわけです。戸隠神社にはいまでも20以上の宿坊(今は旅館)があります。ガイドブックの宿泊施設リストに掲載されてないということは、いまでもこの御師-宿坊システムは残存しているはず。

このエリアには、「鬼女紅葉」の話がちらちら出てきます。「鬼女紅葉」というのは能や歌舞伎の題材になる話で、ごく簡単に言うと、900年頃、紅葉という名前の美女が、源経基の侍女となり、子供を産むが、正妻に呪いをかけた疑いで、戸隠に追放される。戸隠神社の里の辺りの水無瀬(今の鬼無里)にたどりつくが、京に戻りたくて、一族を率いて戸隠山に籠り、付近の村を「戸隠の鬼女」として荒らしまわるようになるが、討伐を命じられた平維茂に滅ぼされる、という話。
戸隠神社の辺りから歩いていくと山越えして1日かかると言われて行かなかったんですが、鬼無里(元は木那佐)村、行けばよかった。紅葉が立てこもった岩屋というのもあって、きっと何かあると思うんです。最近、「邪魔になったので中央から滅ぼされて歴史上「鬼」にされたけど、実は地元で愛されていたリーダー」という分野がある、という事に気付きました。キリスト教が拡がるときに、土着の神様とか王族が悪魔にされたのと同じですね。

写真つきは→ http://www.fromkiyama.com/tog.htm

大王わさび農場

観光地としての安曇野は、「大王わさび農場」という、観光わさび農園を中心に形成されています。わさび農場そのものは、普通の民間経営の会社ですが、素晴らしい点を5つ。
?サイクリングコースのゴール。駅からのサイクリングコースとして、ちょうど良い距離になっていて、周囲の日本アルプスを見ながら、田んぼの間を走り、道祖神をたくさん見る、という素晴らしいコースとなっている。
?美しいわさび農園。綺麗な土と水がないと育たない、わさび畑自体が、美しい。
?わさび直販、わさびコロッケ、わさびソフトクリーム
?黒澤明監督「夢」のロケ地となった水車小屋。被写体としても最高。
?「大王」の由来。先住民が大和朝廷に滅ぼされた歴史のロマン。大王とは、住民に愛された、中央から派遣された坂上田村麻呂将軍に滅ぼされた豪族のことです。
穂高駅をおりて、最初に驚いたのが、レンタサイクルの呼び込みをやっていること。私のときは2軒だけでしたが、レンタサイクル屋としては4軒あるそうです。このエリアのサイクリングの魅力が高い証拠。
その他、
安曇野という地名は、安曇族から来ていて、安曇族は海神(わたつみ)系の一族で、北九州から川を上ってここまで来て、住み着きました。大和朝廷に追われてここまで来た、ということになっているのですが、この地方を治めたということは、財力と技術があったということで、「追い立てられて」というよりも、蝦夷への防御線としてここに封じられた、という理解の方が正しいような気がします。
・このあたりは、「双体道祖神」と呼ばれる道祖神が非常に多く、全国で一番多いエリアです。穂高周辺だけでも130体ぐらいあります。道祖神が多い理由の一つに、材料となる加工しやすい石がこの地方でとれたことが挙げられます。 着色されているものも多く、お祭りで子供が塗ることになっていたりします。
・今から1200年前ぐらいの西暦800年頃、安曇平野で栄えた豪族が「魏石鬼八面大王」です。この大王を祀ったのが、わさび農場の中にある、小さいですが「大王神社」。観光客は見向きもしませんが、石組の仕方を見ると、普通の神社と全然違う。縄文の匂いがするというか、古くからのものです。わさび農場を造成する際、元あったところから、ここに移設されました。
桓武天皇の時代、信濃を足がかりに東北を制圧するために中央から派遣された坂上田村麻呂将軍に、滅ぼされたわけですが、大王はあまりにも強かったので、復活を恐れ、遺骸をバラバラにし、ここ大王神社に胴体を埋めた、ということになっています。
・この手の中央から征服された地元の豪族は、たいていの場合「鬼」にされ、悪行非道の限りを尽くしたから、住民を助けるために成敗してあげた、と歴史が書き換えられます。しかし、住民から愛された「鬼」は、今でも、その名残を残していることがあります。ここもそうで、中央政権の搾取に、正義の味方が抵抗した、という雰囲気です。
・「魏石鬼の岩屋」。魏石鬼八面大王が死んだ場所。古墳でもあります。魏石鬼八面大王は、山鳥の三十三斑の尾羽で作った矢で倒された、という事になっているのですが、どういう意味だろう。ここもそうですが、「岩屋」と呼ばれている場所は、征服者が来る前からの神様が祀られていて、その後、山岳信仰の聖地となって、他の場所とは全く異質なまま残っている場合が多いです。正福寺からこの岩屋まで、歩いて20分ぐらいですが、小さな石仏がたくさんあって、素敵な山道です。

写真つきは→http://www.fromkiyama.com/dws.htm

諏訪大社

御柱祭で有名な長野県の諏訪大社。ひとつの神社と思いきや、4つの神社から構成されています。上社前宮、上社本宮、下社秋宮、下社春宮の4つ。どうやら、これは3つのグループ(「前宮」「本宮」「秋宮・春宮」)にわけることができて、しかも、どうやら3つは全く別グループらしい。あえていえば、縄文民族・大和朝廷・明治政府、にわけられるでしょうか。
諏訪明神の神様は、毎年2月〜7月は「春宮」に、8月〜1月は「秋宮」にいます。田植えと収穫にあわせた、明らかに稲作の神様です。
中でも、私を興奮させたのは「前宮」。前宮に行くと、観光客の受けはあまり良くないようで、ほとんどお客はいませんが、前宮の本質は、近くの資料館に行かないとわかりません。ただの郷土資料館と思ったらそうじゃなくて、前宮は、ミシャクジ神という、おそらくは縄文時代から流れがつながる山の神様を祀っていたことがわかります。

もともとはミシャクジ神という神様を祭った縄文民族がいて、これが守矢一族。守矢はもとは「洩矢」。カタカナでモレヤ一族と思うと、縄文からの先住民というイメージが膨らみますね。豪族の長だったと思います。そこにタケミナカタ大和朝廷の系統。後の諏訪氏)が攻めてきて、敗れるものの、守矢一族はうまく立ち回り、自らを「神長官」という神官のトップにして、タケミナカタ側を「大祝(おおほおり)」と呼ぶ現人神(あらひとがみ。生神様のこと)に仕立てます。つまり、タケミナカタ一族=諏訪明神=大祝=現人神。守矢一族からは、「神長官」という役職に就く人が出て、その祈祷方法は一子相伝。大祝には、成年前の幼児が即位し、即位(=神様になる)の為の神降ろしは神長官だけができる、という制度です。神様は近くの守屋山からおろします。

神長官-大祝システムは、一時衰退しますが、武田信玄に侵攻された後、逆に、おそらくは統治の道具として、武田信玄の保護によって、このシステムは復活します。
なんだか複雑でわけわからないですが、キーワードは、「縄文民族:弥生民族」「山の神:海の神」「豪族:大和朝廷」「黒曜石」「御神渡り」といったところでしょうか。

非常に複雑なんだけど、諏訪エリアの主神は、整理するとこうなります。
洩矢の神(後の神長官守矢一族)が最初にいた。
→ 洩矢の神が、出雲より侵攻してきた健御名方命タケミナカタ一族)と衝突、「天龍川の戦」で敗れる。
タケミナカタ一族を諏訪明神(大祝)として祀る。洩矢の神は、「神長官」職を創設、祭祀の実権を握る。
明治維新にて、神長官-大祝システムを廃止。生神様がいたら困るから。神主は明治政府から派遣。

こんな驚愕の複雑な宗教エリア、他にない。宗教が栄えたところは、間違いなく経済的な力がある地域なわけですが、信州の盆地になぜそこまでの力があったかというと、諏訪湖からの収穫、盆地としての米の収穫、交通の要、という視点はさておき、もっとも重要なのは、黒曜石の最大産地だった、というところだと思います。古代日本では、矢じり等に用いられる黒曜石がその後の鉄のような役割だったわけで、相当な富の集積があったのではないでしょうか。
それにしても、信仰心の強いエリアで、その背景の一つには、「御神渡り(おみわたり)」があると思います。氷の膨張によって湖の氷面に大きな亀裂が走る現象です。大音響とともに、毎年、冬のある時期、突然、諏訪湖の氷が一気に割れるというのは、神様が通ったとしか思えなかったのではないでしょうか。

こういう歴史があると、ふつうは、大祝、神長官への地元の信仰が残っているはずなんですが、ほとんどその名残は見られません。日本の宗教は、明治維新の前と後で大きく変容してしまった、ということがここでもわかります。日本を旅していて、日本には、荒削りだけど、なんだか魂を鷲掴みにするような、自然と共存するモノが、明治維新前はすごくたくさんあったみたいだ、と感じることが多いです。


もっと興味ある方は→http://www.fromkiyama.com/suw.htm