2004-04-01から1ヶ月間の記事一覧

歎異抄讃歌その二十 第十一条〈3〉念仏を自分の力でする行と見なす人

[現代語] 念仏しながら、自力のはからいを加える人がいます。善をなせば往生のたすけとなり、悪をなせば妨げとなる、というように区別して考えるのです。これは、阿弥陀仏の誓願の不思議なはたらきを信じないで、自分のはからいで浄土に往生しようと努力し…

歎異抄讃歌その十九 第十一条〈2〉覚えやすく言いやすい念仏

[現代語] 阿弥陀仏は、誓願の不思議な働きによって、誰でも覚えやすく言いやすい南無阿弥陀仏という名号を考え出し、この名号を称えるものを極楽浄土に迎えようと約束されました。だからまず、この大いなる慈悲の心による誓願のはたらきにお救いいただいて…

歎異抄讃歌その十八 第十一条〈1〉文字も知らないが熱心に念仏する人

[現代語] 文字の一つも知らないけれども熱心に念仏している人に向かって「おまえは阿弥陀仏の四十八の誓願の不思議なはたらきを信じて念仏しているのか。それとも南無阿弥陀仏という名号の不思議なはたらきを信じて念仏しているのか。」と言ってビックリさ…

歎異抄讃歌その十七 中序 聖人が仰せになった教えとは異なること

[現代語] 思えばかつて、親鸞聖人がおいでのころ、志を同じくしてはるかに遠い京の都まで足を運んだ人々がいます。みな同じ信心でやがて往生する浄土に思いをよせ、聖人のお心を聞かせていただきました。その人々に従って念仏の信心を得ている方が老いも若…

歎異抄讃歌その十六 第十条 念仏には無義をもって義とす

[原文] 念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆゑに。[現代語]念仏においては、自力によるはからいの心が混じらないことが、正しい理解です。(念仏は阿弥陀仏の本願の力によって与えられたものですから、私たち凡夫には)たたえ尽くすこ…